■ 霊松寺の歴史

功徳林大洞山「霊松寺」は、応永11年(1404年)に、實峰良秀禅師により開かれた長野県で最古の曹洞宗寺院(http://www.sotozen-net.or.jp)です。
本寺である大本山總持寺(http://www.sojiji.jp)からは、『信濃国初開の道場』と、言う称号を賜っております。
長野県大町市は、かつては、『信濃国仁科郷』と呼ばれ、正歴3年(992年)、信濃鎮撫使(朝廷の使者)として藤原保昌が着任した時より歴史上に現れます。その保昌公の菩提を弔うため、孫に当たる保近が、長元9年(1036年)居舘を保昌院(天台宗)と、改め開基しました。この保昌院こそが霊松寺の源流となるものです。
以下歴史の流れを年代に沿って、紹介致しましょう。

992年(正歴3年) 藤原保昌 信濃鎮撫使として仁科郷に着任
藤原氏三代 44年統治
1036年(長元9年) 藤原氏の統治終る 保近、保昌院開山
醍醐源氏 一條氏 五代 16年統治。
1052年(永承7年) 一條氏の統治終る 平清長に領地を譲る
初めて仁科を名乗る(平姓前仁科氏)
1221年(承久3年) 仁科盛遠 承久の役にて砺波にて戦死
平姓前仁科氏亡びる。六代 170年
1353年(文和2年) 仁科盛忠 仁科郷領主となる(仁科弾誓少弼盛忠)
1393年(明徳4年) 荒廃した保昌院を再興
1404年(応永11年) 保昌院を改め仁科盛遠公の菩提を弔うため實峰良秀禅師を開山に請し霊松寺を開いた。
1561年(永禄4年) 仁科盛政 武田信玄の謀略により甲州にて切腹。
後仁科氏214年間
信玄は五男信盛に仁科家の跡目を継がせる。(仁科五郎信盛)
1562年(永禄5年) 仁科信盛、織田信長の弟 織田信忠により高遠にて滅ぼされる。
510年に亘る仁科家の歴史に幕。
仁科家の滅亡と共に霊松寺は、織田・豊臣政権下に寺禄を失い荒廃する。
1647年(正保4年) 徳川家光より寺領十石を寄進され再興の道が開けた。
1847年(弘化4年) 善光寺地震により七堂伽藍悉く倒壊炎上
直ちに復興に努め庫裡を再建(嘉永年間)
1867年(慶応3年) 大政奉還
1868年(慶応4年) 神仏分離令
1871年(明治3年) 廃仏毀釈令 松本藩 松本平より寺院を悉く取り潰す。
1873年(明治5年) 霊松寺30世安達達淳は、毅然と反駁し、上京して太政官に廃仏令の非を直訴し、遂には撤廃せしめた。
1878年(明治10年) 廃寺となった松川村 観勝院山門を移築。(今回茅葺きに復元)
1883年(明治15年) 本堂を再建